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― これは、"福島県双葉郡浪江町請戸”日本一海に近かった酒蔵:鈴木酒造店が、
                          
被災から復活を遂げる軌跡を記録した文章である ―


 
被災前の仕込蔵内部の様子
 
被災前の蔵の外観
 

■2011年3月11日は酒蔵にとっての大きな節目「甑倒(こしきたお)し」の日であった。午前中
で作業が終了し、ほっと一息をついていたところで大きな揺れが襲った。発酵中の生きている「もろみ」がこぼれるのを目の当たりにしながら、家族を車で高台に先に避難させ、自身は浪江町の消防団員として町の人の避難誘導にあたった。

■第一波は高さ1メートル程度だった。避難に使った車以外の蔵の車がダメになるのは覚悟した。

■しかし、それは序章に過ぎなかった。猛烈な風が海の方角へ向かって吹くのを肌に感じた瞬間、10メートルの波が東から、そして漁港の防波堤にぶつかった波がさらに高さを増して南東から、巨大津波が二方向から蔵をめがけて襲いかかってきた。「高台へ逃げろ!!」町の人たちめがけて大きく叫び、自身も全力で走った。中学で陸上部だったが、後から振り返っても、人生でこの日ほど全力で走った日は無かった。家族は翌日には山形県米沢市へ避難。自身も3日後には米沢に着いた。

■被災直後、マスコミから出て来る浪江町の情報は皆無に等しかった。徐々に甚大な被害状況が明らかになるが、警戒区域20km圏内にあたるため、行って確かめることができない。

■インターネットで空撮映像を見る。―何か少しでも残っているかもしれない―映像を拡大してみる。蔵のあった場所は、ほぼ跡形もなく何も無くなってがれきの山となっていた。
 

 
仕込蔵のあった場所。津波で潰されたタンクが見える。
 
被災後の全景。基礎を残して殆ど何も残っていない。
 

■「酵母が生き残っている」4月のことだった。震災前に会津若松の福島県工業技術センターに分析を依頼していた山廃酒母の「家付き酵母」が、比較的被害の少なかった会津若松で無事に保存されていたのだ。

■「生き残った酵母で、一緒に酒造りをしないか?」先輩にあたる南会津の國権酒造さんが、震災で中断した酒造りを再開する際に声をかけてくれた。タンク一本分、浪江で使っていたのと同一品種の米を國権さんが用意してくれた。その仕込みに限り、磐城壽流の仕込み配合で酒を造ることを許された。できた酒が「地縁復興酒」。裏ラベルの長いメッセージは当時の気持ちそのままである。

■地縁復興酒は、やや熟成向きの酒質だが、噂を聞いた浪江町の住民たちが、避難先から取引先店頭までわざわざ買いに来て、酒の熟度としては若いまま、即刻完売した。町の人たちから大いに励まされた。「酒ができて本当によかった」と。國権さんの御厚意は何よりもありがたかったが、他所で酒造りをすることに正直抵抗が無かったわけではない。しかし、浪江町の人たちの言葉に後押しされた。「次にできる酒を楽しみに待っている。是非とも浪江のものを残してほしい。」
 

福島県工業技術センターで生き残っていた酵母

出荷前の地縁復興酒を手に鈴木大介氏

 

■蔵のあった浪江町請戸地区は、福島県の最東端に位置する。福島第一原発の北東約7km。炉心溶融(メルトダウン)直後の風向きから反れており、警戒区域の中では放射線量がかなり少ない。

■5月、浪江町住民の一時帰宅が許可されたが、自身は國権さんの酒造りの最中であり、代わりに家族が向かった。そして写真を撮った。

■蔵の建物は空撮映像でみた通り、基礎を残して跡形も無くなっていた。高価な精米機も、お酒を搾る「槽(ふね)」も無残に倒れて転がっていた。そんな中、元々、瓶貯蔵が多かったため、P函に入っていたお酒が、倒れながらも思いのほか残っていた。その数1000本くらいだろうか。

■先に一時帰宅した近所の人だろうか。倒れた瓶を、元々蔵があった場所に綺麗に整列してくれていた。まるで、震災で亡くなった方へ手向けているかのように。これを見て、さらに意志を堅くした。―来年の春のお彼岸までに酒を造って浪江へ帰る―
 

お酒を搾る「槽(ふね)」も津波で破壊された。
生き残った瓶を地元の人が整列してくれていた。
 

■―できれば、福島県内で酒造りを再開したい― まずは会津地方の水の綺麗な工業団地の一角が候補に上がった。蔵を新築すると仮定して、業者に酒造りの設備の見積もりを依頼した。―期間は半年。何とかなるかもしれない―

■ここで、終戦直後の祖父の苦労話を思い出した。戦時中の企業統制で、小さな酒蔵は強制的に大きな酒蔵に合併させられたりして、酒造免許を返納させられることが多かった。鈴木酒造店も例外ではなく、終戦時には、酒造りの道具までも取り上げられて殆ど残っていなかった。


■戦後、国税局に免許復活の陳情に足繁く通うことになるわけだが、酒を造る設備のない蔵にはなかなか免許がおりない。税務署から役人がチェックに訪れる当日に合わせて、県内の他の蔵から樽などを借りて大八車で持ってきて何とか間に合わせた。車輪のつくった"わだち“を消すのが大変だっと聞いていた。

■何十年後になるかわからないが、浪江町に戻って酒造りをするのが家族全員の願い。そのために、浪江町の酒造免許は維持しておきたい。会津で酒を造るのであれば、浪江町の酒造免許とは別に、新規に会津の酒造免許が必要だ。ここで、祖父と同じ問題にぶち当たる。設備が無い蔵に免許はおりないのだ。

■もしかしたら、10月11月までに設備が揃うかもしれない。しかし、免許は設備が揃ってから申請しなければならない。お役所仕事のため、申請後何ヶ月かかるか読めない。税務署に相談すると、免許がおりるのに最低5ヵ月、下手すると1年以上かかると。―それでは、来春のお彼岸に間に合わない―

■8月いっぱいまで、どうにか会津で新築する方向で奔走した。しかし、施工業者さんに最大限融通を利かせてもらっても、お彼岸には間に合いそうになかった。断腸の思いだったが、福島県内での再開は断念した。
 


■避難先の山形県米沢市。そこには東京農大の同級生の蔵があり、山形県工業技術センターの小関先生を紹介してもらった。前後するが、5月の話である。”吟醸王国”山形を築き上げた先生だ。その山形にあっても、過疎・高齢化・後継者難により廃業する蔵が後を絶たない。

■会津での酒造りが本命だったが、既存の蔵を引き継ぐというのも当初より有力な選択肢だった。「山形県内で、廃業を予定する蔵を紹介するので、蔵見学のつもりで気軽に。」と、小関先生と共に1蔵訪問した他、県内外で4蔵まわった。条件がよかったのが長井市の蔵だった。裏庭の水路は雪解け水で溢れ、川魚が元気に泳いでいた。

■9月、長井市の蔵を引き継ぐ案が再び浮上した。その蔵は「東洋酒造 株式会社」。昭和6年の創業で、浪江の鈴木酒造店のように家族経営の蔵ではなく、その当時から会社形態をとっていた。長井市の政財界の有力者十数人が出資して、「酒蔵の無くなった長井に再び蔵を」というコンセプトで建てられた蔵なのだ。

■条件がよかった理由の一つがこれである。例えば、家族経営の蔵を買収した場合、酒造りは鈴木家でできても、住居は元の蔵元が住んだままというケースが考えられる。そうなると、同じ敷地内でどうしても気を遣って自由に酒造りができない可能性がある。東洋酒造の場合は、純然たる会社のため、その気遣いの必要がない。

■「酒蔵の無くなりそうになった長井市で蔵を継いで」と、創業当時のコンセプトをなぞるように、スムーズに移行できるからだ。敷地面積は少し狭いが、コンパクトに設計された作業空間は悪くない。―かねてから思い浮かべていた理想の酒造りがここではできそうだ―

■震災前、40歳になるのを契機として、浪江の蔵の作業工程の改造を考えていた。仕込み総米1300kgでの中規模タンクで仕込みから、半分の600kg〜700kgへのシフトチェンジだ。品質向上は言うまでもないが、一回の作業で使う体力を温存し、短距離走的な酒造りから、中・長距離走的な酒造りへのシフトチェンジでもある。

■”居抜き物件”的な引継ぎではあるが、東洋酒造は普通酒・増醸酒ばかりを造っていたため、タンクが大きすぎた。設備をそのまま使っていては理想の酒造りができない。正式な引渡し契約は10月25日以降の予定だが、設備の搬出の許可は10月初旬にはおりた。早速、大きいタンクを全部搬出して廃棄した。地元の人には「この人は酒を造る気が本当にあるのだろうか?」と思われた。

■震災前の製造高が500石。仕込み総米600kgで4日に1本の仕込み作業だと冬の間だけの造りでは追いつかない。春や秋、ひいては夏の仕込みの可能性も想定して、次は蔵の作業空間を冷蔵庫に改造する作業に取り掛かった。

■家族経営で資金が潤沢な訳でもなく、酒の在庫も津波で商品としては全て駄目になってしまった。山形県に住民票を移したため、福島県の義援金も受け取る事ができない。ただ、事情が事情だけに、山形の銀行が無担保で融資をしてくれた。無担保とはいえ、莫大な借金であることには変わりない。設備費を少しでも節約するべく、旧知の業者と価格交渉し、若干勉強してもらった。床のコンクリートも手直しする必要があったが、こちらは建設業の親戚にお願いし、自分たち家族も作業を手伝った。

■10月下旬、理想の設備が全て揃ってはいなかったが、冷蔵庫の内装が仕上がり、山形県内の酒蔵や全国の先輩や同級生の酒蔵から譲ってもらった600kg仕込み用の3000L前後のタンクを搬入した。そして大安吉日、ついに酒造りを開始。

 

 麹室の内部。東洋酒造が10年ほど前に新調しており、
ちょうど木香が抜けて使いやすい頃合いになっている。
 発酵中の「もろみ」。上槽まであとわずか。  


■浪江町は福島県浜通り地方。長井市は山形県置賜地方。緯度は殆ど一緒だが、気候は驚くほど違う。積雪の殆どない浪江とうって変わって、長井の冬は、とにかく雪。雪。雪。常に雪掻きが必要な環境であると共に、外は曇っていて常に湿度も高い。浪江町も冬の最低気温はそこそこ低いが、昼間は晴れて暖かく、乾燥していた。

■山形県工業技術センターで大体の話は聞いていたのだが、気温、湿度の違いのため、酒造りの心臓部、麹造りのやり方が浪江の時と全然違う。戸惑うことも多かったが、がむしゃらに前に進んでいった。幸い、作業の動線の良い蔵なので、体力的には浪江の時より少し楽になった。

■12月中旬、ついに仕込み1号を上槽。浪江の時と同じ「槽(ふね)」での搾りが理想で、業者に新品を発注していたのだが、納期が間に合わず、東洋酒造のヤブタ式自動醪圧搾機で搾った。そして、12月19日大安吉日、出荷開始。

■山形の環境に合った酒造りを心がけたのだが、仕込み1号2号のしぼりたては、驚くことに「浪江の磐城壽と同じ香りがする」と言う旧知のお客さんの声が多かった。浪江の蔵は硬水、長井の蔵は軟水なので、以前より全体的には綺麗になっているのだが、後の余韻が自身でも不思議なくらい、以前のものと似通っていた。

■仕込み3号以降は、環境に慣れてきたせいか、山形らしい味になっている。浪江の磐城壽の再現は、例の「生き残った蔵付き酵母」を使用する今後の仕込みを待たれたい。もろみ何本か搾り終わった2011年12月30日大安吉日、正式に蔵を引き継ぎ、名実共に「株式会社鈴木酒造店長井蔵」はスタートした。

■2012年1月8日、浪江町の消防団の出初式が、役場移転先の福島県二本松市で行われた。浪江町住民が大勢で集まるのは震災後初である。持っていった酒は大いに喜ばれた。私たち一行が長井蔵を訪問したのは、その翌日の1月9日だ。曇りの日が続く山形だが、珍しく晴れていた。

 

 
 冷蔵設備を備えた長井の仕込蔵

 近々、槽(ふね)の入る予定の槽場で語る鈴木大介氏。
とても前向きだ。

 
豪雪の長井で、2012年1月9日の正午から15時にかけて聞いた話を文章にした。


文章:山中酒の店 井上勝利 写真は一部を除いて鈴木酒造店様に御提供頂きました。

 
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