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■避難先の山形県米沢市。そこには東京農大の同級生の蔵があり、山形県工業技術センターの小関先生を紹介してもらった。前後するが、5月の話である。”吟醸王国”山形を築き上げた先生だ。その山形にあっても、過疎・高齢化・後継者難により廃業する蔵が後を絶たない。
■会津での酒造りが本命だったが、既存の蔵を引き継ぐというのも当初より有力な選択肢だった。「山形県内で、廃業を予定する蔵を紹介するので、蔵見学のつもりで気軽に。」と、小関先生と共に1蔵訪問した他、県内外で4蔵まわった。条件がよかったのが長井市の蔵だった。裏庭の水路は雪解け水で溢れ、川魚が元気に泳いでいた。
■9月、長井市の蔵を引き継ぐ案が再び浮上した。その蔵は「東洋酒造 株式会社」。昭和6年の創業で、浪江の鈴木酒造店のように家族経営の蔵ではなく、その当時から会社形態をとっていた。長井市の政財界の有力者十数人が出資して、「酒蔵の無くなった長井に再び蔵を」というコンセプトで建てられた蔵なのだ。
■条件がよかった理由の一つがこれである。例えば、家族経営の蔵を買収した場合、酒造りは鈴木家でできても、住居は元の蔵元が住んだままというケースが考えられる。そうなると、同じ敷地内でどうしても気を遣って自由に酒造りができない可能性がある。東洋酒造の場合は、純然たる会社のため、その気遣いの必要がない。
■「酒蔵の無くなりそうになった長井市で蔵を継いで」と、創業当時のコンセプトをなぞるように、スムーズに移行できるからだ。敷地面積は少し狭いが、コンパクトに設計された作業空間は悪くない。―かねてから思い浮かべていた理想の酒造りがここではできそうだ―
■震災前、40歳になるのを契機として、浪江の蔵の作業工程の改造を考えていた。仕込み総米1300kgでの中規模タンクで仕込みから、半分の600kg〜700kgへのシフトチェンジだ。品質向上は言うまでもないが、一回の作業で使う体力を温存し、短距離走的な酒造りから、中・長距離走的な酒造りへのシフトチェンジでもある。
■”居抜き物件”的な引継ぎではあるが、東洋酒造は普通酒・増醸酒ばかりを造っていたため、タンクが大きすぎた。設備をそのまま使っていては理想の酒造りができない。正式な引渡し契約は10月25日以降の予定だが、設備の搬出の許可は10月初旬にはおりた。早速、大きいタンクを全部搬出して廃棄した。地元の人には「この人は酒を造る気が本当にあるのだろうか?」と思われた。
■震災前の製造高が500石。仕込み総米600kgで4日に1本の仕込み作業だと冬の間だけの造りでは追いつかない。春や秋、ひいては夏の仕込みの可能性も想定して、次は蔵の作業空間を冷蔵庫に改造する作業に取り掛かった。
■家族経営で資金が潤沢な訳でもなく、酒の在庫も津波で商品としては全て駄目になってしまった。山形県に住民票を移したため、福島県の義援金も受け取る事ができない。ただ、事情が事情だけに、山形の銀行が無担保で融資をしてくれた。無担保とはいえ、莫大な借金であることには変わりない。設備費を少しでも節約するべく、旧知の業者と価格交渉し、若干勉強してもらった。床のコンクリートも手直しする必要があったが、こちらは建設業の親戚にお願いし、自分たち家族も作業を手伝った。
■10月下旬、理想の設備が全て揃ってはいなかったが、冷蔵庫の内装が仕上がり、山形県内の酒蔵や全国の先輩や同級生の酒蔵から譲ってもらった600kg仕込み用の3000L前後のタンクを搬入した。そして大安吉日、ついに酒造りを開始。
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